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                   藤井弥生の生い立ち

1966(昭和41)年3月17日生まれ うお座 O型。当時、酪農を営んでいた両親の元、3人姉妹の末っ子として、千葉県佐倉市直弥168 番地に生を受けました。名前の由来はお気付きかと思いますが、3月に生まれたからです。上二人は〇〇子と、その時代の女の子らしい名前だったので、子供の頃は皆と同じが良い、という考え方をしていたので、 それなら流れ的に私にも〇〇子ってつけてくれたら良かったのに、安直につけられた上に古臭い”弥生”という名前が大嫌いでした。

大人からは「素敵な名前ねぇ」と言われましたが、同級生からは「弥生式土~器」「弥生じだ~い」音楽の時間では「♪さ~くら~さ~く~ら~や~よ~い~の~・・・」と名前の所で私の方を振り向く子がいたりといじられるのがとても嫌でした。

思い返せば、乗っかって笑いにすれば良かったのにと思うのですが、プライドが高かったのか、自ら楽しいことをするのは大好きだったのですが、からかわれるのは大嫌いでした。こんな名前を付けた親を恨んだりして・・・。今は好きも嫌いもなく、受け入れてるという感じです。

それから私が生まれた時代、特に農村地帯、更に私の生家である藤井家では、まだまだ男尊女卑が普通にあって、嫁は男を生んで当たり前でしたから、3姉妹を産んだ母がどれだけ肩身が狭かったことか。。

周りの大人が「一人くらい男がいればなぁ」とか「次は男か」と言われ、2番目も3番目も女でそんな環境に置かれたせいか、 「私が男だったら良かったのかな・・・」そんな思いが芽生えてきて、小学生の間はスカートを穿かない子になっていました。

そして女の子っぽい言動もしなかったし、皆を楽しませることが好きな反面、意地悪な一面もあって同級生をからかったりもしてました。そして寂しさの裏返しかストレスなのか、とにかく家にいるときはいつでも何か食べていたように思います。

給食もおかわりは当たり前でしたから当然体格が良く、クラスでも一番大きかったので男子からは男扱いされていたし、いじめではないけどからかわれる対象にもなっていました。それも嫌で仕方なかったですねぇ。そのきっかけを作ったのは私自身なので相手が悪いとは間違っても言えませんが。

本当は普通の女の子のようにスカートを穿きたい。男子からも女の子扱いされたい。好かれたい。心の中ではずっとそんなことを考えていました。そして中学に入るのをきっかけに、制服のお陰でやっとスカートを穿くことが出来ました。

それからは昔の私を知らない他の小学校の子達がいて、そして初めて先輩後輩というものを意識するようになり、かっこいい先輩もいたりして、ドキドキ体験を沢山たくさんして、それなりに中学生の女の子らしい生活を送ることが出来ました。

                  いい加減だった子供時代

高校入試を前に、将来の夢なんて何も持っていなかった私は、とりあえず高校くらいは出ておかないと、くらいの気持ちで、その高校選びもどこに行きたいとか全くなく、制服で決めました。

そしてその高校へ行くには、電車に乗らないと行けなかったのですが、電車にほとんど乗ることのなかった私は、それも楽しみの一つだったのですが、通学し始めてそれが間違いだったとすぐ気が付くことに。何なんですか!あの満員電車は~!!そしてただでさえ、朝が弱かった私は、ほんとにきつくて大変でした・・・。

小さい頃、家の中の不協和音に気が付くようになり、子供の頃は見えるものだけで判断してしまいますから、家の雰囲気が悪いのは全て母のせいだと思っていました。とにかく怖い人で、家には木刀が置いてあり、実際に叩かれた事はなかったのですが、抑止力には十分でした。子供の頃の母の記憶はいつも怒っている、ヒステリーを起こしている、そんな感じ。

嫁姑や夫婦問題も毎日がストレスで、家を出たいと思ってもどうして良いか分からず、消えてしまいたい衝動を押し入れの中に隠れたりして現実逃避をしていました。そんなことを何度か繰り返し、社会人になってまだ実家にいた頃ついに家出をしたんです。

でも、仕事には行っていたので1週間ほどした頃に職場に母から電話があり、私が電話口に出ると、いつものように「ごめん、母ちゃんが悪かった」そう言って泣くのです。私の中では「またか。泣いて謝ったって何にも変わらないくせに。何にもわかってないくせに・・・」そう思って冷めていたのですが、家出自体も限界に来ていたので、その晩に帰りました。

こんな繰り返しの毎日が本当に嫌で仕方がなく、この家を出れば、きっと幸せになれる。楽しいことが待っているはずだ、と漠然と考えていました。

                早く家を出たくて高卒で社会人に

勉強も出来なかったから授業はつまらないし友達ともゴタゴタがあって楽しくなかったし、とにかく家にいるのが本当に嫌で早く家を出たいという気持ちでいっぱいだった私は、どんな会社でも良いからと、手っ取り早く社員寮があるところを狙って入社試験に臨んだのですが、そんないい加減な気持ちでいたからか、不合格・・。

結局、高3の2月まで就職先が見つからず、先生からも「お前はここにでも行け」みたいに紹介された会社が出来たばかりの会社で、事務職として採用されたのですが、仕事らしい仕事もしないまま、GW明けには「倒産することになったから・・・」と初社会人の幕はあっけなく閉じられてしまいました。

元々いい加減で飽きっぽい性格だったので、高校時代もお小遣いが少ないのが不満ならバイトをして、欲しいものを買えばいいものを、交通の便が悪いことなどを理由に、なかなか見つけようとせず、決まっても数回~数か月で辞めてしまう無責任の代表みたいな子供でしたから、しばらくは家でダラダラしておりました。

家を出たがってたのに?と思われるかもしれませんが、それと同じくらい車にも乗りたかったんです。田舎では18歳になったら免許を取るのが当たり前だったので、何の疑問も持たずに取りました。そして免許を取ったら乗りたいじゃないですか、車に・・。一年くらいで止めてしまいましたけどね。でもその期間だけでも運転をしていたお陰で、実家に戻った今も移動手段として助かっています。ペーパードライバーだったら戻らなかったかも。

ブラブラしている中、夏を前に地元の市民プールで受付の募集をしているのを知り、面接を受けに行ったのですが、「受付はもう決まっちゃったから監視員やらない?」と言われ、そんなに泳げないというと「毎日練習時間があるから大丈夫」と、それでひと夏だけ監視員のアルバイトをしたですが、これがとってもとっても楽しくて、チーフに「休まなくて良いの?」と言われるまで、毎日出勤していましたw

今思えば、これがきっかけで、仕事をする楽しさを知り、責任感もついてきたのかもしれません。このバイトが終わってすぐくらいに、ちょっと興味のあった歯科助手の仕事が決まり、同僚にも恵まれたおかげで社会人になって初めてとも言えるこの仕事も楽しく充実した日々を送ることが出来ました。

歯科助手はざっくり言うと、先生のお手伝いみたいなもので衛生士さんと違い、自ら口腔内に触れることはNGでした。だから仕事をしている内に、その立場に物足りなさを感じるようになり、先生のように自分で治療し、カルテを書くということにあこがれのような気持ちを抱くようになり、かと言って歯科医や衛生士になるには大学を出て・・・勉強嫌いな私が出来るわけがありませんし、そこまでしてやりたいとは思わなかったというのが正しいですね。

その頃、テレビから流れていたエステのCMを見て、コンプレックスの塊だった私は「ここに就職すればただでキレイになれるかも!」こう考え、とある求人広告に18歳以上と書かれていたので、早速、電話をかけたのですが、そこで言われたのが「18ねぇ、20歳になったらまた電話してきて」と。18歳以上と書いたのは高卒以上という意味だというようなことを言われたと思います。

その回答に納得がいきませんでしたが、雇う側がそういうなら仕方ないと思い、20歳になって改めて、その会社に面接を受けに行ったのですが、今度はその会社のアカデミーに入るのにお金がかかるというのです。広告には、希望者はアカデミーに入って勉強出来るというように書かれていたと思っていたので、それを告げると入社するなら必ずアカデミーに入るのだと。

専門学校にいくことを思えば、破格の値段ではありましたが、当時の私にそれを払う余裕はなく、かと言って親に借りることは絶対したくなかったので、仕方なく一年お金を貯めてから改めて入社することにしました。

あのいい加減で、テキトー人間だった私が、エステ業界に入りたいばっかりに頑張ってお金を貯めましたよ。その間、気持ちが揺れることなくただエステの仕事がしたい(自分がキレイになるため?w)がために、頑張れる子になっていました。

そして1年後、就職と同時に一人暮らしを始め、一人で起きられない私が起きられるようになり、苦手な家事も自分でするようになり、どんどん大人になっていくのでした。ただ、アカデミーを卒業後、店舗に配属されるのですが、初めての店舗ではこれまでに経験した事がないほど、(私にとっては)いじめられる毎日でした。

エステに就職するまで、女性だけの環境にいたことがなかったのですがアカデミー時代は大変ながらも女子高ってこんな感じなのかなと割と楽しく過ごせていたので、店舗でのあらゆる辛い経験は何度も辞めたい気持ちにさせられました。

それを何とか乗り越えられたのはお金の力ですw  子供の頃から家は貧乏で、高校に入るまでお小遣いをもらったことがなく、お年玉が唯一の収入源だったのに、当時の私はお金の価値など分からず、手にしたらした分使ってしまうというロクデナシでございました。

だからだと思うのですが、アカデミーの費用は自分で稼ぎ、さらに私が入社した当時は1年無事に勤め続けたら全額が返ってくるというシステムだったのです!もし、親のお金で返金もなかったら、私はとっくに辞めていたでしょう。そういう意味では、私にはうってつけの職場だったわけです。

そして嫌で嫌で仕方なかった仕事も、一年も経つと少しは仕事に自信もついてきて、いじめてきた先輩もいつのまにか仲良くしてくる?ようになり(私の中ではわだかまりが暫く抜けませんでしたけどね)少しは楽しいと思える余裕も出て来て、お金が全額戻ってきたら辞めてやる!と思ったこともありましたが、お給料もまあまあ良かったので、このまま続けてみようと思いました。

当時はまだバブルの余韻が残っていたので、お給料がどんどん上がっていったのです。入社当時こそ、OLさんより少しマシかなというくらいだったので、一人暮らしをするのも本当は東京に住みたかったのですが、その頃の東京でも風呂トイレ付で5万を切るなんてあるわけないと言われ。それでしばらくの間は千葉でも良いかと、紹介されたアパートは本八幡駅でした。

〇〇荘という、いかにも古そうな名前にぴったりの築40年?くらいだったでしょうか。ただ2階の角部屋で日当たり良好、2DKバストイレ別と古いことを除けば好条件!駅からも徒歩10分ほどで田舎に住んでいた私からすれば天国です。転属先も幸い2つ隣の小岩駅という好条件で、拘束時間が長く疲れる仕事でしたが、慣れない時期にこの通勤距離は本当にラッキーでした。

エステ業界に勤めること丸4年、どんどん上がったお給料のお陰で、ついに東京に住める時が来た!と、次に移り住んだのは中野区東中野。以前の同僚が東中野駅に住んでいたので、何となく馴染みがあったので決めました。本八幡の時もそうだったのですが、周りの環境がどうなのかとか、そういったことを何も考えずに駅近、間取り、賃料、これだけで決めてしまったのですが、実家と比べたらどこも超便利なわけですよ。そして東京=物価が高いと思ってましたが、中野は賃料は高いですが、日用品は庶民にやさしい街なのです。

住めば都と言いますが、ほんとにそうで、一人暮らしをするまでは2年ごとに引っ越していろんなところに住みたいと考えていたのですが、現実はそんなの無理。それに中野に住んでからは、賃料以外はほぼ文句はなく、実家に戻るまで20年以上同じアパートに住んでいました。私の第2の故郷と言っても過言でない、中野は今でも私の住みたい街ナンバー1です。

バブルがはじけ、10年を過ぎたあたりからでしたでしょうか、お給料が下がり始めたんです。基本給を下げられ、〇〇手当という項目が増え、中には社内試験に合格しないともらえない手当も出来て、試験を受けるにもお金がかかったり、休みを使わないといけなかったり・・・そんなに給料をあげたくないのか?!と勘ぐってしまいました。

そんなこんなで、すっかりモチベーションが下がってしまった私は、これ以上この会社にいる意味はないなと辞める決心をしました。辞めたら最低1年くらいはのんびり過ごしたいと思っていたので、それに見合ったお金が貯まるまでは頑張り、そろそろ良いかなと12年目を迎えた年に、貯まりに貯まった有休約3か月分(だったかな?)を使い、退職しました。

その後は本当に丸1年以上、仕事をせずのんびり過ごしていました。正確には家で脱毛メインの仕事をしていました。数人の同僚とお客様だけに声をかけ、その人たちが次々とお客様を紹介してくれたので、一時期はそれだけで生活出来るんじゃね?と思うほどでしたが、世の中そんなに上手くは行かず、原因は色々あると思うのですが、そろそろ他の仕事もしなくちゃなぁ~と探し始めました。

そうそう、原因の1つとして、私がメインでやっていたのは脱毛で、当時はまだ針を使って1本1本抜くというやり方が主流だったのですが、私がエステを辞めてまもなく、レーザー脱毛や光脱毛というのが出て来て、今のやり方ではもうやっていけないなと辞めることにしたのです。

だからと言って正社員として働く気はなかったので、興味のあった派遣会社に登録をしました。様々な業種がある中、多くは接客関係の日雇いの仕事をし、まだわずかに残ってくれている自分のお客様への施術と並行して、多い時はエステで働いているよりも収入が多かった時もあり、そのお金で大好きな海外旅行に行きまくっていました。。

派遣会社で働くこと数年、とある社員さんから出張マッサージの仕事をしないかとお誘いが。この会社、リラクゼーション事業部もあったのですが、面接に行く前も行った時も、私の経歴を見ているはずなのに、そんな話を聞いたことがなかったのです。ここで私は初めてほぐしに出会うのでした。

契約しているホテルからマッサージの予約が入ると会社から私達へ一斉メールが来るので、早い者勝ちなんです。そして元々予約自体が少ないのでこれだけではお小遣いにもならないレベル。それでもマッサージが出来るというだけで嬉しくて可能な限り出かけて行きました。

オイルマッサージはエステで長年やってきましたから、施術の事で困ったりはなかったのですが、ほぐしはやったことがなかったので、始めは見よう見まねでしたよ。治療院でない限り、この仕事はそんな素人がやっていることもあるのですよ・・。あ、今はどうか知りませんが。

ただ、受けて頂くお客様に少しでも満足して頂くためにわずかな空き時間を利用して先輩から手ほどきを受けたりしていましたし、身体を触ることは慣れてたので、どういうことを望まれているかはある程度分かっているつもりでしたから、その経験は十二分に生かされていたと思います。

それでもホテルに来るお客様はほとんどが一見様。あっちが痛い、こっちが痛いというご要望に対してその場限りの施術をするだけ。お客様もそれを承知で受けているわけですが、エステ時代も通って頂いてはいても、痛みは一向に良くならない。痩せない、きれいにならない・・・。

エステ時代、アパートの近くにあるジムに通っていたのですが、それまで身体の事と言えば、アカデミー時代に教わったことやテレビや本などで独学で勉強した美容目線の知識ばかりでしたが、ジムに通うようになって、美容目線ではなく、健康目線からの話が目からうろこで、自分で自分の身体を変えることの大切さを改めて、知ることに。

それでも今のような考えで仕事に向かうようになったのは、やはり開業してからでした。

エステ時代はもちろん、出張マッサージをしているときも、忙しさのあまり正直その場限りのやっつけ仕事になっていました。仕事に対する責任感はそれなりに持っていたつもりでしたが、勤めていたときは何かあっても結局は店の、会社の責任として処理されるので、何かあっても人任せになっていたと思います。

当たり前ですが、開業してからは全てが私の責任。分かっているつもりで分かっていなかった事を痛感させられ、特に施術に関しては、私の努力次第で、いえ、私の努力なしでは上達することはあり得ませんから、そこから本当の意味での勉強が始まり、現在に至っております。学ぶことに終わりはありません。これからもお客様の身体と心を整えるお手伝いをするために頑張り続けます!

ふじいやよいってこんなやつ

HP作りが久々なので、どのページも見づらい点が多々あると思いますが多めに見てやって下さい。

すぐ下の写真はHP作るために最近撮りました。下に行くにつれて古くなります。

次は友達がサロンに来てくれて、もう一人の友達に写メを送るのに撮ったものです。

その次は別の友達の誕生日に写メしたものです。アホですよね。

次は2、3年前にサロンで撮りました。比べると・・・老けましたよね💦

その下はすぐ上と同じくらいの時期だと思います。東京時代の友達と。

一番下は、東京時代に何度かやったコンパニオンの写真です。化けてますw

お見せ出来るような写真があれば、また載せますね。

ふじいやよいはこんなやつです。

そうは言っても私という人間がどんなやつなのか1/10も伝わっていないと思います。

とりあえず悪い奴ではなさそうだと思って頂いたら一度サロンへお越し下さい😊